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メビウスの輪: トラウマ支援の脱力系おべんきょう日記(4) それは生き延びるための選択の結果では?

前回の記事を振り返ってみたら、あらら「解離」が「乖離」になっておりました。
どっちを向いて謝罪したらいいかわかりませんが、お詫びして訂正いたします。失礼しました。( 該当箇所、下から三行目、修正済みです m(__)m )
余談ですが、「かいり」を変換すると、私のPCでは第一変換で「乖離」が出てきます。
ずーっと理論と実践の乖離を閉じるための研究をしてきたので、この字も見慣れていて、なんだか愛着があります。
しかし、今回は、精神の方の「解離」の話題です。
  
今から何年前だったでしょうか・・・多重人格っていう言葉が流行りました。
1996年に放映されたNHKのドラマ「存在の深き眠り」で、大竹しのぶさんが、複数の人格を持つ女性を演じていました。
交代人格が表に出ているときは記憶がないこと、トラウマ(このドラマでは幼少時の性的虐待など)によって生じた複数の人格を統合するには、 それぞれの交代人格が折り合いをつけるような心理的過程(話し合いのような過程)が必要なことなど、特徴的なことがドラマの中で描かれていました。
私はあまりドラマを見ないほうですが、この作品は見ていました。 とても興味があったのでいくつかのシーンをよく覚えています。
不思議だなぁ、人間の頭の中って・・・という関心でした。この年は学部編入した年で、まだ精神保健学を専攻する前でした。
精神やろうなんてこれっぽっちも思ってませんでした。
なのに・・・
卒論研究の領域を選択するときに、保健社会学か、保健管理学か・・・どこに所属しようかと悩んで、悩んで、結局、頭の上から降ってきた勘で精神に決めました。
それが運命の分かれ道で現在に至ります。ドラマに関心を持ったように、私の精神のどこかに、精神を専攻したがる何かがあったのかもしれません。
精神保健学教室の恩師から「あなたのやりたいことは社会心理学です」と言われましたけど(笑)
  
話を戻しますと・・・
かつての多重人格は、解離性同一症とか解離性同一性障害(DID)と呼ばれるようになりましたね(DSM-5参照)。
私は精神医学が専門ではないので、これについてどうこう言える専門的知識は持ち合わせていません。 が、一応、心の健康とか、元気によい経験を積めるように働くとか、そんなことが可能になる「よい社会関係」に関心を持ってきた経緯もあるので、ちょっと解離について思うことを語ってみます。全然専門的じゃないのでごめんなさい。
  
まず、「独特ですね」と言われる私の考え方について、ちょっとだけ触れておきたいと思います。
それは、精神科の患者さんから教わったこと(というか、学びとったこと)なんですが・・・「人間って強いなぁ・・・」ってことです。
精神症状を出しながら生きてる! って思うのです。そんな考え方をしていたら、私からみた精神症状はもはや症状でもなんでもなくなってしまい、対処の個性だったりしてしまうわけで・・・(笑) 
何が病気だか異常だかわからなくなってしまったんです。
もちろん、これは、看護学生を連れて病棟に通って、毎日毎日精神科のデイルームで自分も景色の一部になってその空気にまみれて・・・なんて生活の結果生じた認識です。いつからこう思うようになったのかわかりませんが、かなり以前からこんな考え方をしています。
研究者として一歩を踏み出した頃、精神科の経験のなさを補うために、毎週、勉強のために教授回診に陪席させてもらっていましたが、医学的な観方をじーっと観察していたことも、結果的に異常を異常と思わなくなった一つのきっかけだったかもしれません。
異常を言うなら正常を説明できないといけないのに、正常な精神とか正常な人間性・正常な人格を説明できない世界なんだなと思った瞬間に、これってどうなんだろう?と深い疑問が生じて、今も解決していません。(精神医学がご専門の方がいらしたら、ごめんなさい。)
   
そんな認識が基本にあります。
  
あるとき、DIDを疑われていたうつ病の患者さんと本当にたまたま話す機会を得ました。DIDを疑われているということを知ったのはあとからでした。
学生が散歩に同行するというので、私もついていったんですが、病棟から近隣に移動するほんの短い移動の道中で、その患者さんから話しかけられたのです。拒否する理由がなかったので、普通の人として話しかけられた流れにまかせて、その話を受けとりました。たわいもない話だったと思います。記憶にもありません。私自身は別に話したかったわけじゃないけれど、話したくなかったわけでもない。無下にもできなくて歩きながら無難に(否定も肯定もしないといいますか)対応していたつもりでした。しかし・・・、結局、そのあと主治医から呼び出されて「聴くな」と言われた(笑)
私の患者の不調の原因をつくった犯人はあなたですね!? みたいな感じで、もうビックリ!(笑)とりあえず、自分は素人だと思っているので、素直に「はい、すみませんでした。」と謝っておきました。何かしたという自覚はなかったけれど、どうも私の存在それ自体がダメだったらしい。しくしく。
でも、普通の人として、このことがずーっと納得できなかったので、本当は何が正しいのか、病んだ人との間の適切な社会関係って一体何??と思ってきました。
  
DIDに限ったことではないのですが、他者との関係性と無縁でいられない人間の社会生活を送り続ける上で、適切かどうかはさておき、生きのびるための対処をしてきたからこそのその人の在り様というのがあるように思ってですね・・・。その一つが、たまたま、ある人にとってはDIDとラベルのつくような状態だったと。
  
そんなことを考えるとき、回復を促す支援の関係って、患者さん側が、それまでとは違った認識と行為のパターン(精神の活動とその発現のパターンと言ったほうが妥当かもしれません)を自ら獲得する機会を提供すること、日々起こる課題への対処を促し、変化を待つことに近いなと思います。
促し方は、支援者の専門によって色々だと思いますが。
そうやって、支援という要素が組み込まれた “その人の人間としての生活”が続いていく中で、少しずつ世界観が変化して、患者さん自身も変化して、いつのまにか生きやすくなっているというかなぁ・・・。
生活の中で他者に支えられながら色々なエピソードに対処して成長していくのって、別に患者さんじゃなくてもそうだな・・・って思いますけれどね。根本的には同じ。人間だもの(笑)
  
5月の長い連休中に、岡野憲一郎さんの著書『解離新時代 脳科学、愛着、精神分析との融合』を読みました。とても面白かったんです。
健忘を伴う重いDIDだけじゃなく、必ずしも健忘が伴わず、人格部分(以前の交代人格と同義)が完全に入れ替わることが無いような方もいらっしゃるとのこと。トラウマティックストレスを経験したときに、その人の脳がどのような反応をするかで、DIDになる場合もあるし、そうならない場合もあるといったようなお話でした。
これはとても納得できました。
  
岡野さんは、この本の冒頭部分で「人間の心は解離的だ」と言っています。私自身は、本当にそうだなと思う一人です。
そして、健康的な大人の多くが、素の自分を出さないようになったり、素の自分がわからなくなったりするのとも共通点があるんじゃないかな・・・とも思いました。
  
まだ看護学生だった頃、極めて単純だった二十歳そこそこの私は「人間の顔は一つだ」と思っておりました。
あるとき、医学部医学科の先輩から「人間って色んな顔持ってるからさぁ・・・」と言われ「一つでしょ?」みたいな反応を返したところ、「子どもにはわかんない話」みたいなことを言われたように記憶してます。
そのときの「子ども」が、その後、縁あって産業精神保健の分野で、かつ、自らも職業人として色々な人を観て来たわけですが・・・
その「大人」として、たしかに人間は色々な顔を持っていると言えるかもしれないなぁ~と感じています。
しかし、だからといって、それが健康な大人だ とか、健康な大人としてあるべき姿だ と言えるかどうかはわからないし、それと対比して、人間の顔は一つだ と主張する人が「子ども」だと言い切れるのかどうかはわかりません。
  
色々な顔の持ち方も、人によって程度の差がありますよね。
中には、お人がまるっきり入れ替わってしまったようでついて行けない方もいらっしゃいます。あるいは、確かに一貫したその人ではあるけれど、自分をスッキリ使い分けられてデキる人だな~なんて思うような方もいらっしゃいます。だけど、よくよく話をきいてみると、そのデキるお人が幸福感を感じられず孤独を抱えている・・・なんて場合もあるのです。
援助職って、よく「その人らしさ」を大事にしてあげる・・・みたいなことをさらっと言っちゃったりするのですが、一体、その人らしさって何なんでしょう?
私たちは自分のことをただ一つの自分らしさとして語れるでしょうか・・・? たぶん、難しいですよね。
かといって、多種多様な側面が単に寄せ集められて出来ているということでもない。自分というものは、あらためて捉えようとするとわからないものです。
   
にわか勉強の結果、現在の私が個人として捉えたことでしかありませんが・・・
DIDになった方は、トラウマティックなエピソードに遭遇したときに、生き延びるための生体反応として、無意識に、DIDという診断がつけられる後遺症を伴うような対処を選択したのだろうなと思います。(できる限り正確に言おうとして、かえってまわりくどくなりました。すみません。)
それは単に異常だと価値づけるのではなく、生き延びるためにその時選択したものではあるのだけれど、結果的に別の生きにくさを負ってしまったのだな・・・と捉えたほうがいいのではないかなと・・・。
同書には、解離にも弱いものと強いものがあることや、解離と母子関係との関連、解離と右脳との関連についてとても興味深い記述があり、いずれも根拠に基づいて書かれていて、もともと科学領域の知識になじみのある私としては納得いく内容でした。(精神分析に関しては門外漢なので、一読してもクリアに理解できませんでしたが。)
   
人間の心と社会関係について、患者さんと支援者(←治療者を含む)から教わることは多いもの。
じっくりと考えて、患者さんの生活世界から、そして、支援者が経験する患者さんとの関係性から「悟るように学ぶ」のです。
この過程に終わりはありません。
(上記3行の私流の浪花節、精神看護学実習で関わったことのある方は懐かしいかも?  久しぶりに言葉にしました。)
    
支援者の仲間内でも、いわゆる精神はちょっと・・・という方は少なくないようですが、私は支援の基本が精神科関連領域の中にたくさんあると思います。
だから、偶然選んだ領域に今までいられるんです。(足りなくて哲に手を出してしまうというありさまですが。)
それだけ、ごく平凡な普通の生活、できて当たり前と言われる行為が、何によってできているのかを考えさせてくれるし、人が人でいられるための対人関係というものについても深く考えさせられます。人として生きる限り、延々と探究すべきことがたくさんつまっている、知識の潮目のような場所であり未解決領域。
喰わず嫌いの方はちょっともったいないな~と個人的には思っています。
 

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