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かんごの木

メビウスの輪: 生きる(2)

胆振東部地震から一年が経過しました。
近年は、地震のみならず大雨なども含め、日本中、本当に大きな災害が多いですね。
被災され、親しい人や慣れ親しんだコミュニティなど、有形無形の日常を失われた方が大勢いらっしゃるということです。
一括りにはできない多様な「その後の生」に、わたしは、祈るような気持ちで頭を下げるしかありません。
つまり、無力ですが、無力なりに祈りながら社会に身を置き、自らの生を生きることはできます。
なので、自らの生を生きることが、過酷な経験をされている方のお役に立てる何かを生み出せたらいいなと思っています。
  
今回は無力ながら、つれづれに、生きる力と、生きる上での選択について言葉にしてみたいと思います。
  
もしも、わたしに力があるとすれば、人間として生まれた「自分の意識」のような形で感じられる「生きる力」でしょう。
それが、わたしが持っている唯一の力で、無理やり表現すれば、無色透明のエネルギーのようなものです。
  
わたしはこれまで、色々な方たちから、実年齢よりも少しだけ若く見えることに対して「いいわね、苦労がないのね」という誉め言葉をいただいてきました。
誉め言葉だということをわかっているのですが、わたしは、その言葉を受け取るたびに恥ずかしく、「あなたは苦労が足りない、もっと苦悩に耐えられる人間になりなさい」と言われているような気がしていました。
そのためか、過酷な経験をされている方たちに出会うたびに、わたしは、どこか申し訳ないような、後ろめたいような複雑な気持ちになるのです。
わたしは、恵まれているにもかかわらず、懸命に生きていないのではないかと。
どのような選択をすれば、生きていることに恥じずに生きられるのか……
  
何かを決めるときは、このような根の深い問いに届く様々な問いに答えるように選択し、成人期のほとんどを過ごしてきました。
気づけば、弱くて甘えたい自分や不安で怖がりな自分をねじ伏せるようにして他人の過酷体験に近づき、いつのまにか、無力のプロのようになってしまいました。
実際、他者が過酷体験によって身に着けた様々な技(生きる術)に巻き込まれ、自分が過酷な経験をしてしまって、本当に傷ついて無力状態のこともありました。
ごく若い頃は、そんな経験を笑い話(いわゆる自虐ネタ)にしていましたが、年齢とともにレベルが上がって来て、笑い話にできないことの方が多くなり、心底笑える自分を取り戻すのに時間がかかったときもありました。
それでも、いつも、どんな境遇でも、「笑」という「人間特有の脱力」は大事だな~と思っています。
  
その過酷体験ですが……
本当に人の数だけありますね。いたましくて目にすることも聴くことも困難なことが、たくさんあります。
もちろん、目に見える状態は平穏そうに見えてもご本人にとっては生きるのがしんどくて仕方がない……というパターンもあります。
本当にさまざまで、程度の差は言えないなぁと思うしだいです。
  
とはいえ、わたしからみて、多様な事例に概ね共通していることが一つだけあります。
それは「苦悩の渦中にある人は凄い!」ということ。人の底力に驚異を覚えるのです。
苦悩の渦中が長く続きすぎると底力にも限界がありますから、底力を枯渇させないためのライフラインが必要だなといつも思います。
そして……
人が生きのびようとした結果生じる様々なこと(決していいこと・美しいことばかりではありません)に遭遇するたびに、それぞれが経験する「どん底」からの再生力を支えられる人になれたらなと思ってきました。
  
底力というとポジティブなイメージを思い浮かべる方が多いかもしれませんが、ここで言う「底力」や「力」には方向性も性質もありません。
力は本来、単なるエネルギーであり、それ以上でもそれ以下でもありません。それ自体に、価値はなく、取捨選択する以前のもので、とても大事なもの。生きのびるために。
  
けれど、何よりも人という生物にとって大事なのは力を「ともに生きられる社会を構成するものとなるように使うこと」です。
こうした、わたしの考え方は、カイラシュ・サティーアーティさんのTEDスピーチ「怒りで世界に平和をもたらす方法」( https://www.ted.com/talks/kailash_satyarthi_how_to_make_peace_get_angry?language=ja )のエネルギーの考え方とほぼ同じです。
  
少し横道にそれますが……
このTEDのスピーチ、倫理の授業(@工業系大学校)で使っていたこともありますし、何度も何度も見ているのですが、見るたびに感動して涙が出ます。スピーチ後のショートインタビューもとてもすてきです。
御覧になったことが無い方は、是非視聴してみてくださいませ。(言葉のエネルギーがすごいので、英語の肉声を聴いたほうがいいです。上記のリンクは、日本語の字幕が入っています。所要時間は18分22秒です。)
  
彼の名前は、カーストを捨てたときに自らつけたそうで、サティ―アーティとは「真理の探求者」という意味なんだそうです(スピーチの中に出てきます)。かっこいい!
  
私は、彼のような活動家にはとうていなれませんが、ごく小さくても彼と同じ志で自分の道を歩みたいなと思っています。
  
人間は、一つの人生しか選択できません。 
どのような選択をしてもよく、選択には自由があります。けれど、どんなに頑張っても一つしか選択できません。
  
大きな選択をするときほど、色々なことを考えます。
自らの人生にとって大切なことは何か、そして、わたしの選択は、傍らに生きる人の「生」にどのような影響をもたらすのか……。
  
自らの人生において、一つの道を選択したとき、わたしたちは、他の道を選択して生きたであろう自らを殺めていると言えます。
自らの選択によって、傍らの人も、少なからずゆらぎ、大なり小なりの人生の選択を迫られることになるでしょう。
他の道を選択して生きたであろう自らを殺めるということは、
他の道を選択して生きたであろう自らとともに生きたかもしれない大切な人の生の可能性も殺めたことになるのかもしれません。
違う言い方をすれば、自らの選択によって、傍らに生きる大切な人が選択しなかったであろう「生」を強いる可能性があるわけです。
もちろん、関係性が大きなダメージを受け、歪んだり破壊されたりする可能性もあるでしょう。
  
生きることは選択の積み重ねによって道をひらいていくこと。こう表現すれば明るく、心地よい表現になるでしょう。
しかしそれは、言い方を変えれば、不確実に開いている未来にむけて可能性を狭めることです。
そして、その選択は、他者を方向付け、時に道連れにする(巻き込む、自由を奪う)ことでもあるのかもしれません。
(あえて嫌な言い方をしていますが。)
  
何かを選択するということは、それ以外を捨てること。
それを拾っていたらひらけた可能性のある人生を、つぶすこと。
何かに向けて方向付ける・導くということは、それ以外を捨てさせるようにしむけること。
それを拾う可能性を許していたらひらけた可能性のある人生を、見ないようにしむけること。
  
自らを大切にできないと、大切な人も大切にできませんし、
生の方向性を自ら選択できない人の生を導くことには、本当に重い責任があるものだとあらためて思います。
  
「殺」という言葉は、あまりに軽く使われるようになりました。
世の中には、目に見える「殺」を犯さなければセーフだと思っている人もいるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか……?
  
古くから「人生はいつも死と隣り合わせだ」と言いますが、この聞き慣れたフレーズも、時代の変化にしたがって含まれる意味が変わっているように思います。
日常の中に潜んでいる「隣り合わせの目に見えない死」について考えてみるのも、人生を豊かにする上で必要なことなのかもしれません。
  

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