降りる支援

2020年10月12日

今日は、ピアスクール(ピアサポーターを養成するスクール)で使う教材を整備して、いつもスクールで大事にしていることを思い出しました。

それは「降りる」ということ。何から? 専門職とか支援者とかいう立場からです。

ピアスクールでは、ピアで居続けるために、どんなに知識と経験を積んでもミニ専門家にならないでね……というメッセージを投げかけ続けています。そして、わたしもピアとしてともに学ぶ姿勢をとる……つまり双方向の対話を重視しています。

専門職や支援者という立場から降りる ということは、専門性を手放すということではありません。ちょっと嫌な言い方ですが、ソーシャルステータスを降りるということに近い感覚です。

これまでも、研修とか、個人のSNSとか、学部学生の教育プログラム以外の場で、そんなニュアンスの発言をしてきたようにおもいますが……

教壇の上からそんなことを言っても……

あるいは、学位だの経歴だのをぶら下げてそんなことを言っても……

受け取る方は、なかなかどうして「本気」でそう思っているとは思えませんよね(笑)

ちょっとイジワルな観方をすれば、

現場に向かって、外野席から、ヒューマニズム的な「いい話」をしている感じにしか見えなかったりします。

そこまで思わないにしても、言ってることとやってることが食い違っているのは明らかです。「当事者性に欠ける」と言っても言い過ぎではないかもしれません。

だから……

わたしは、ある時から、極力、研修や講演で自分の経歴紹介をしないことにしました。

先方から求めがあるときは別ですけれど。丁寧にご紹介いただいても……冒頭で「それはもう過去のことで、今のわたしは、どうってことないただのわたしです」とお話ししています。

それでも、日本だろうとどこだろうと「資格」があってはじめて「支援者」として認められる的なところがあるわけです。ですから、一応保健師です……と名乗っていますが、実際は、極力、ただのおばさんでいることにしています。知識を含め、内的経験を秘めたおばさんですね。

とくに、最近の「きき屋」の活動ではそんな感じです。

ちなみに、博士であることは、保健師という資格よりも、一層、何の役にも立ちませんが……

ただ一つ、これを言うときには大変説得力があります……それは……

「ケアについて科学研究もして哲学的にも研究したけれど、結局、何もわからなかった、つまり、わからないということがわかったのだ」

本当のことです。笑いをとるためじゃなく、現場の人に自信を持ってもらうために使ってます。「研究」だの「学位」だの、つまり「知識」に対してひれ伏す必要はないのです。

もちろん、勉強はやってやりすぎということはありません。知識も持っているほどいいとおもいます。けれど、それらに囚われてしまうのでは、現場はよくならないし、問題も解決できないのです。

囚われずに、使う、それを使って考える、活動する(=生きる)……そのあとから答えがついてくるんです。

大概、困っている人(支援の対象者)は、すぐに答えを欲しがります。

けれど、残念ながら「生きた答え」は出ません。どう頑張っても出ない。だって、生きた答えは、生きた結果についてくるものだから。

あらかじめある知識なんかに、確かな答えなどありえません。あれらは「死んだ答え」です。もう少しマイルドな表現にするなら、「既に過去になってしまった答え」と言ってもいいでしょう。

専門家は、死んだ答えをたくさんもっていて、それらを組み合わせて、相手の話を知識の組み合わせで理解して、シミュレーションして未来にどうなりそうか「推論の結果」を言ってみたりします。

けれど、それは生きた答えじゃなくて……まぁ、知的な(科学的な?)占いみたいなものでしょう。

専門家の皆様から袋叩きにあいそうですが……予言のようなものだとわたしはおもいます。

当たらない占いよりは当たるかもしれませんが……確率・統計だって、もともとは賭け事から発展したんです。統計的な数値を持ち出して語る科学的知識なんて、うのみにして都合のいい想像などしちゃいけません。

ただし、専門家が何か言ってくれたら、なんとなく先を見通せたような気がして、大概、不安のテンションが下がったり諦めがついたりします(ますます占いと同じだけれど……)。それはそれで悪くありません。何故なら、強い不安に生命力を削がれると、肝心なことができなくなったり、おそろかになったりするから。

では、肝心なことって何?

それは、四苦八苦して生きることです。ちゃんと困って、ちゃんと悩む、ちゃんと生きる苦労をして生きること、つまり、その人の人生にとって普通のことをサボらないでやり続けること。

その生きる過程の一部分(一側面? 一場面?)を共有するのが支援だとわたしは思っています。

そのとき、表に出ているのは専門職であり支援者の「人間」の部分です。

ことさらに「人間」でいること。だから、相手は「支援される人」をやめなくてはならないんです。

相手も「人間」になる。そこから、本当の支援がはじまるのだとおもいます。

支援者は、支援者をやめて人間にならなくては! 

そうでなければ、相手の「人間として生きるちから」が出て来ません。

人間になるってことは、本気だってことです。本気で困っている人(支援を必要とする人が皆困っているとは限りませんがねw)と、本気で悩む……悩みを解決するための対話をしてみる……。

本気というとテンション高そうですが、別に力が入ってなくても、熱くなくてもいいのです。腰がすわっている、自分でいられる……それだけでいい。ちゃんと出来ればたいして疲れません。

本気で一緒に悩む……その過程で……

知識をたくさんもっている人は、少しいいアイディアが湧くかもしれませんし、

視野も幾分広くて、ほんの少し先が見通せるかもしれません。

それを、相手の人(支援の対象、困っている人)と、人間として共有できるように、

「相手の人にとって普通の対話」を重ねて行けたら……

きっと、困っている人は、困っているだけの世界ではなく、解決の世界をみられるようになるでしょう。

ほんとうに相手を生かすことのできる支援って、そんなものなのだと思います。

降りる支援って、支援をする相手(=困っている人)が人間として立っている地面に、しっかりと両足をつけて、ともに生きることなんですよね。日々あたらしい。日々チャレンジです。

ケアと生をみつめて 書き物のおはなし(連載裏ばなし的に)