スピリチュアルケア、つれづれ

2020年12月12日

今週、久しぶりに深く感情が動かされる出来事がありました。

ある方から「話しがしたい」とのご指名を受けて、その方の傍らで少しまとまった時間を過ごさせていただいたのです。その時間、その人と一緒に生きてみた……そんな感じです。わたしの言葉がきっかけとなって、人生でもっとも辛かった頃のことを思い出されたとのこと。わたしの言葉の連なり(流れ)が、ご自身の深いところにしまっておいた心をうつしだす鏡になったのでしょう。

背景もキャラクターも全く知らない方との深いお話しは難しいものです。面談の枠のようなもの(外的に与えられる枠組み)もありませんから、お互いに生きるにちょうどいい枠を対話の過程から醸し出しながら過ごします。

相手の方が心の扉を開きすぎてあとから後悔しないように、逆に、開きかけていた扉を閉めさせてしわないように、お互いに、ちょうどいい開き具合でおさまるところを探りながらはなすと言ったほうが、幾分わかりやすいかもしれません。

わたしが大切にしているのは、健康的な人間関係をつくることです。健康的で互いに自らの生きるちからを活性化できる人間関係が、ケアが生きている人間関係(コミュニケーション)だと思うので、ほんの短い時間でもそれを大切にします。

このように、特定の技法はとくにないので、上手だったのかどうかはわからないのですが、最後は自然に明るい表情をされていたので少しほっとしました。そして、わたしの側にも「その方からいただいた何か(たぶん、生きるための叡智につながるもの)」がのこりました。一緒に生きると、お互いに豊かになる……そう思います。

その時間を互いに自分自身として生きるということは、互いに人間として真摯であるということなので、学ぶことが多いのだとおもいます。

これは、わたしが長い間あたため育ててきた研究によって気づかされたこと……そう、頭で知るより、「自ら気づく」ことがとても大事なのです。

科学で扱うような特定の技法ではなく、哲学などで語られるような考え方の道筋でもありません。人間の「センス」みたいなもの(笑) 

わたしはたぶん、若い頃からセンスがなかったし、心が不器用すぎたので、センスを探究するしかなかったんでしょうね。

研究で答えを掴んだとたんに、学んできたことは何もかも霧散して、世界がただの光になってしまいました(ゼロ=原点に戻った)。けれど、世界が、一段明るくクリアに見えるようになったようにおもいます。

たぶん、そのとき、わたしが生きてきた世界は区切りを迎えて死んだのだとおもいます。身体は生きていますが(笑)

様々なことを学んできた結果、あえてそれを手離したからこそ、世界を安心してみることができるようになったのだと思います。


その研究なのですが……ちょうど1年前、その内容を他の研究者にお話しする機会がありました。

そのとき、宗教学がご専門の先生から「あなたがされていることはスピリチュアルケアですよ」という助言をいただきました。

スピリチュアルケアといえば、わたしの中では死の臨床のイメージがあり、同時に、純粋に生きることに向き合うケアだな……という理解があります。

わたしは、もともと、死の臨床がやりたかったのですが、死を迎える人に出会う中で、ある確信を掴んだのです。それは、生きることを最期まで支えられるケアの原点は、生きる精神力を支えることにあるということ、そして、生きる精神力を支えるケアは、人を生かす社会関係だという確信でした。

わたしは特別な信仰を持っていませんが(わたしは、ものごころついた頃から宙をみて問う習慣がありましたので「自分教」ですw)……

人間が、自らを生かすための精神力を自ら支えるには、何らかの信仰というものが必要なものだなと思っています。

特定の宗教を信仰していようといまいと、人には、自らの内に問いかけ、自ら、自らの在り方を決める自由があるとおもっています。

同時に、人間の存在(いわゆるその人らしさのような、目にみえない存在感)には、必ずそれを照らして支持する人的な環境(社会関係)があるので……

自らの在り方を決める自由があるということは、どのような人の中で生きたいのかを決める自由があるということだとおもいます。

なので……人を生かすことのできる社会関係は、互いの生きざまを「許す」社会関係なんだろうと思います。

「そんなユートピアみたいな社会は無い、理想論だ」と思われるでしょうが、この話には続きがあります。

そのような社会関係は、許せないという現実が在るということ自体を、否定しない(肯定もしない)のだとおもいます。それは、価値判断以前のレベルで、事実としてしっかり認識するということに近いとおもいます。

そして、許せないことから距離をとって離れることを許せるのだとおもいます。

つまり、許すというのは、互いの「存在」を、人間の認識によって創られた価値で縛らないということ……それにチャレンジする、それぞれの内で、そして、互いに……。

相手の生きざまを潰す(殺す)ことなく、自らの生きざまも潰さずに生きるなら……許せないときは離れて、許し合える出会いを探し求めていく……そんな自由を許容して、社会を構成し続けていく……それが正解なんじゃないかな……とおもっています。もちろん、言うほど簡単じゃありません。許せないことだらけです、世の中!(笑) 

冒頭でふれた「面談」のときに、わたしの口をついて出た言葉……無意識に出た言葉なのですが……

「人生はたぶん許しの旅なんだと思う」

キザでびっくりしますが(汗)、別にキザで言ったわけではなく……、許せるタイミングは人生によって違う……そんなことを言いたかったのです。

過酷な人生ゆえに、自らも含め、誰一人として許せないと思っていた人が、この世を去る数日前にすべてを許せて本当に穏やかな気持ちになり、そのとき傍らに居たひとたちと穏やかで豊かな時間を過ごせたというお話に触れたことがあるのですが……

許しの旅のストーリーは、人生の数だけあるのだとおもいます。だからこそ、それぞれに意味があり、比較不能(それぞれ価値がある)……そうおもいます。

わたし自身は、比較的まとまった時間余命がのこっている時点で、ケアの本質を掴むと同時に許しについて気づくことができて、穏やかな気持ちになれたのですが、たぶん、これが、わたしに残された人生の時間にとって必要だったのだとおもいます。

つまり、まだ許しの旅は終わっていない……(笑)この先は、たぶん、もっとヘビーだと……要覚悟(笑)

それはさておき……

もしも、わたしが大切にしていることが「スピリチュアルケア」なのであれば、それは、自由で、かたちがなく、人間の内に宿る自然の力を尊重することだとおもいます。

スピリチュアルケアに用いられる技法は、極端なはなし、害にさえならなければ、どんなものを選択してもいいのだとおもいます。

大切なのは、支援者自身も、人間としての自らの特性を生かした健康的な関わり(=生かし生かされる関わり)ができることだとおもいます。わたし自身、弱くイビツな人間です。だからこそ、いろんな人から学び続けることができ、その過程に喜びを感じます。出会いによって、どんどん豊かになって、なんてことのない普通の日常が尊いと思える……それがケアの過程から学ぶことなのだとおもいます。

クラスターを経験した事業所の皆さんの声をお聴きして思うこと ケアについて書く仕事の裏側で(雑感)