ケアについて書く仕事の裏側で(雑感)

2021年1月14日

大学に勤務している頃、「忙しい、忙しい」というのが常でした。もちろん、周囲もそうでした。「忙しかったね」が仲間として共有しているひとつの世界観なのです。「多忙」「時間がない」「スキマのないスケジュール表(手帳)」が、価値の指標であり、豊かさの象徴のようでもありました。

けれど、忙しいという文字が示しているように、忙しいと「心を亡くす」のです。

同じ組み合わせの文字に「忘」があります。「亡くした心」が忘れるなのです。

わたしは、忙しさのレールに乗って暮らしているうちに、大切なことをどんどん忘れていく自分が虚しくなって、大学の職員を卒業しました。

それが、わたしの「引き算生活」のはじまりになったのです。色々なものを手離して、自分が解放されたら軽くはなったのですが、どうも世間と逆行しているようだなと感じます。

時折「独りって、ほんとうに一人分の時間と空間があるだけなんだな」って当たり前のことを思います。

わたしの手の内に残ったのは「時間」だけになりました。

心を取り戻すというのは、「時間」を取り戻すことだったのだなと最近おもいます。書いていて、エンデの『モモ』に似てるねと思います(笑) どっかに学校の廃墟でもあったら、そこに住みたいくらいです。

冗談はさておき……

この「手の内に戻ってきた時間」をつかって自らを動かしていくのが、「自らを生きる」ということなのだと気づいたのです。フランクルは「人生から問われる」と言いましたが、本当にそうだなと思います。生まれ落ちたときから始まる「生かされる人生」から「ならばあなたはどう生きるのか?」と問われるのです。

わたしは、あまりにも長い間「忙しさ」を美徳とする社会に居過ぎたために、時折、今の自分に罪悪感を覚えることがあります。一日をのんびりはじめる、分厚いスケジュール表がいらない、自分の仕事を優先する……本当にそれでいいのだろうかと思うことがあります。「みんな大変な思いをして働いているのに」と思うのです。それはわたしの身体が覚えている条件反射のようなもので、「みんな」って誰? と自らに問うてみると、それは、わたしの内に棲む記憶でつくられた社会のことなのです。

そのしくみがわかったら、時折戻って来てしまう罪悪感も振り払うことができるようになってきました。「内なる社会を刷新しよう」そう思います。

心のどこかにあった「忙しい世界の人」を羨む気持ちもなくなり、この時間が自分の人生なのだ、自分の人生をどう動かすかが大事なのだと本気で思うようになったのです。

今後にむけて結構やることはあるのですが、マイペースで進めるのみ。周囲に振り回されないので、色々することがあっても「忙しい」と思わない自分に気づかされます。忙しいのではなく「楽しい」のです。「自分の時間」で生きているからなのでしょう。

「ヒマならこれやってよ」と仕事を押し付けてくる人もいないですし、最近は正直に「ヒマだよ」と言うことにしています。ヒマなスペースに何が入って来るのか、楽しみでもあります。

先日は、明るいリアクションが入ってきました。研究会の仲間に連絡をするとき、「コロナで忙しくてききたくないと思うけど、わたしはヒマです」と書いたら、ウケて「笑った、ありがとう!」ってリアクションがかえってきたんです(笑)

そっか、おもしろい! 自分をそのまま出すと、ハッピーが戻って来るんだ!

と、おもいました。

自分自身の時間と、自分の内側にある言葉もすこし関連があるようにおもいます。

昨日の朝、仕事に出るために身支度をしていたとき、突然頭の上から降ってきたかのようにこんなことを着想しました。

人生にとって捨てることのできない必須の言葉は、「ありがとう」と「さようなら」である。

まったく想定外に着想したので、このことを、忘れないように昨日会ったひとたちに話したのですが……

これをきっかけに、頭の中にある「言葉」を引き算する遊びをしてみることにしました。

自分の世界観の中にある様々なことをクリアにして、人間として生きていることの本質を取り出す作業として面白いなと感じたからです。なんとなく、言葉をはずすと、アナログな「流れ」や「変化」だけが残る気がしています。たぶん、これが「時間」なんだろうなとおもいます。

毎日毎日、言葉が頭に充満する暮らしをしているので、いいかげん、断捨離したくなったんでしょうね(笑)

生きているということは、なんだか「降り積もることがら」をうけとめていくことのようです。時折、軽くしないと、どんどん身動きがとれなくなってしまいます。

デスクから降る雪をみながら、「春の雪解けのように、定期的に、降り積もったものを水のように流していけたらいいよね」と思います。

そうすることで、新たな花が咲き、収穫の時を迎えられるのだとおもいます。

ちなみに、本当に「ありがとう」と「さようなら」以外に必須の言葉がないのだろうか?と考えたところ、非言語で表現が難しいものに「ごめんなさい」があるなと感じました。

けれど、これは、もしかしたら、「ありがとう」と「さようなら」と非言語表現を組み合わせることで、表現できるのかもしれないなと考えています。言葉は便利ですが、囚われると不自由を招くものでもあります。あえて言葉を引き算し、非言語情報のありがたさをかみしめるのも、現代には必要な経験なのかもしれません。

スピリチュアルケア、つれづれ 現実から離れない書き方