人生という「木」

2021年4月12日

はやいもので、発展的廃業を宣言してから3か月余りが過ぎました。

前回の記事から2か月もあいてしまいましたが、この間、一気に春になったのと同様、わたし自身も、変化を実感しながら過ごしました。

2月は、まだ、出版したいと思っている原稿を抱え、半ば無理矢理書いていましたが……

3月になって、新しいことを始めるための準備を加速させる必要があり、思い切って原稿の執筆を手離しました。

やめたというより、ご破算にした……という感じです。無理にしがみつかないことが大事。あれこれ考えて計画したプランというものは、大概うまくいかないものですから。

うまくいかないのは、あれこれ考える材料のほとんどが「過去」の経験だからなのです。未来は過去によってつくられるのではありません。そのため、あれこれ考える計画というものは、あって無いようなもので、動き出したら大概そのとおりにはいかないものです。

自分で考えた計画に固執して、いま無理に書こうとして体力と気力を削ぐよりも、思い切って自分を楽にしたほうがいいという判断でした。

もしも、執筆する必要があるなら、それは必ず戻って来るものだとおもいます。本を出版するとかそういうことではなく、執筆することが、支援者として生きることを決めた自分の人生を、生かしてくれるかどうか……それが、周囲にも有効にはたらくかどうか……そんなエネルギーの流れのようなものがとても大事なことなのです。

苦し紛れに書いていても、自分が自分であるように生きている感じがしない。それなら一時的にでも手離してしまったほうがよいと思いました。

執筆を手離して、自分の関心が向くことに正直に動き、いままで考えたことのないことを考えるようになったことで、このひと月余り、わたしの「支援」の世界観はさらに変わってきました。

おかげさまで、いま、ふたたび「やっぱり書こうかな?」と思う気持ちが戻ってきました。続きを書くというよりも、違った書き方をしてみたい……そんな感じです。自分が成長すると、書くことも変わるのでしょう。

こんな経験をしている最中、つい数日前に「人生は木みたいだ」と思いました。

この個人事業も「かんごの木」で、「木」には思い入れがあります。

人生が一本の木だとしたら、わたしという人間の生きざま、つまり、生き方を決める精神が木のようなものだなと思うのです。なんといいましょうか……いまここでの自分自身の精神が、人生という一本の木の在り様なのだと思います。

様々な環境で、意図しないことに遭遇することもありますし、意図して選択した環境が自分に合わないこともあります。けれど、そうした経験をしながら、わたしたちは、自分の生きざまを選んでいます。

自分の精神が、他の誰とも同じではない一本の木として、どんな社会関係の中に根付き、そこで何を遺したいのか……

人間は、自らに問いかけ、自らを動かしながら、自分の精神という木を大木に育てる作業をしているのかもしれないなと思ったのです。

そんなことを思いながら、木が大木に育つには、一体何が必要なんだろう……動物として生きている自分は、自分の精神に対して、何をしてあげられるんだろう……そんなことを思いました。

強風のとき、予期せぬ大雪のときなど、想定外の出来事があったとき、木が裂けたり折れたりしないようにするには……と考えると、枝をはらったり、一時的に囲いをしたり……と、ちゃんと観察して、タイムリーに手を添えるような世話をすることが大事です。

自分が自分であることを決めている「自分の精神」に対して、きちんと自らの意思で手を添えるような世話をしていくことが、必要だなとおもうわけです。

これが本当の「自律」なのかも?……そんなふうに思います。

目に見えない世界のことなので、上手に表現できませんが……大切な自分自身の精神に対して、折れないように、そして、自分自身であるように生かし続けることは、大人になった人間の大事な仕事なんだろうな……と思うのです。

大人は自らを生かすだけではなく、傍らに生きる人とともに在ることで、他者を生かす場をつくっていく存在なのですから……。

自らに手を添えるようにして、自分自身が強く生きられたら、周囲にある他人という木(他者の精神)もまた、自分自身でいることが許されて、積極的に自らを生かすことができるのかもしれません。

自分の人生という木を生かしていくために、ちゃんと、自分の内なる声に耳を傾け、自らに対して手を添えるような支援をしていきたいものですね。

それが、「支援者としての生きざま」に帰するのだとおもいます。

現実から離れない書き方 かんごの木の近況